漢文脈

 齋藤希史『漢文脈と近代日本ーもう一つのことばの世界』(NHKブックス)を読み終える。たいへん面白かった。


 しばしば、昔の人は漢文の教養があってえらかった、なんていう話しを耳にする。たしかに漢字をたくさん知っている方が教養ありげだし、漢文の持つある種のスタイルは、現代日本語にもある種のリズムや名調子を与えてくれるかもしれない。


 が、この本の著者は、漢文からの言葉を織り交ぜる政治家のスピーチも、「夜露死苦」という壁の落書きも、本質的には変わらないという。漢文(著者の言葉では漢文脈)とは一つの知的世界であり、その世界が決定的に失われた後に、断片化した形でその言葉を使っているという点では同じだからである。著者の主張は、近代日本文学の歴史とはまさに漢文脈からの脱却の歴史であり、漢文脈との対決の歴史であった。このような視点から、著者は、しばしば欧米の文学の流入という視点においてのみ捉えられる自然主義以降の文学史を、むしろ漢文脈からの脱却の歴史として読み直す。それは東アジアにおける大きな知的変容を描く精神史の試みでもある。


 著者の視点からすると、しばしば同じく漢学的教養の持ち主とされる森鴎外夏目漱石は本質的に異質な存在であり、鴎外・荷風と谷崎・芥川の間には大きな知的断絶がある。実にスリリングな議論であり、一気に読んでしまった。


 それにしても、著者の指摘するように、近代日本における「公」意識のなかに、漢文脈のなかに受け継がれた士大夫的メンタリティを見いだすことはたやすい。そうだとすれば、その種のメンタリティが完全に消滅した現代において論じられる「公共性」論とは何であるのか。いろいろ発想が広がる。