講義雑感

ついでに勢いに乗って、もう一本。講義についてだ。

 

 

正直なところ、英語で講義をするのも楽ではない。これまでも単発でなら何回かやったことはある。が、週3回を14週やるというのは初めてだ。我ながら「大丈夫かねえ」と思いながらドイツまでやってきた。

 

 

その不安は今も消えない。今日を振り返っても、途中から、かなりメタメタな英語になってしまった。文法が崩れ、正直なところ、ひどい英語を喋っていたと思う。それでも、学生さんたちは一生懸命、こちらの話を聞いてくれる。彼ら彼女らに感謝するしかない。ひょっとしたら、ドイツの学生さんはかなり忍耐強いのかもしれない。

 

 

前にも書いたように、読み上げ原稿は準備できていない。毎回、自分でも改めて勉強し直さないといけない文献リストを学生さんに提示している。それをちゃんと読み直して、パワーポイント資料を作り上げると時間切れである。まあ、幸か不幸か、それがいいのかもしれない。パワーポイント資料を使いつつ、ほとんどはアドリブで話をする。完全に会話調である。実際、学生さんも途中で色々意見を言ってくれるので、その限りでは「双方向的」である。

 

 

もちろん、もっとちゃんとした英語を話したい。美しくて、文法的にもきちんとした英語を話したい。が、今の僕には無理だ(永遠に無理かもしれない)。かなりしっちゃかめっちゃかな英語を話すしかない。が、にもかかわらず、内容はよく理解してもらっていると思う。身振り手振り、やりとりしながら、大切な部分はしっかり理解してもらっているという自信はある。かろうじてではあれ、ある。

 

 

今日の最後は日本語の資料を読む演習である(彼らは一生懸命、日本語文献を読む。喋る方は難しいけれど、読む方はかなり頑張る学生さんもいる)。僕は自分の編集した岩波の『戦後日本の思想水脈』の「民主主義と市民社会」の巻を教材に指定した(http://amzn.asia/f3CpQIK)。石橋湛山河上徹太郎、読みにくいと思う。でも今日は河上の「配給された自由」をめぐって、学生さんたちはとても興味深い議論を展開してくれた。

 

 

「自由が与えられたものであれ何であれ、今自分が本当に自由であると思えるなら、それでいい。実際、僕は日本研究を専攻したけど、親はそんなの期待していなかった。それでも、僕は自分でそれを選んだ。だから自分は自由だ」と一生懸命話してくれる学生さんがいた。ナイーブな議論だと思うけど、とても愛おしく思った。可愛い学生さんだ。

 

 

どの講義も演習も、一生懸命反応してくれる学生さんがいる。そういう学生さんが可愛いのは、世界どこでも同じだと思った。