アーレント(1)

 いま話題の映画『ハンナ・アーレント』をみた。なるほど、うわさ通り、たいへんな人気ぶりで、平日の日中であるにもかかわらず、朝から窓口の前に長蛇の列ができていた。ほとんどは高齢者であったが(まあ、勤め人には来られない時間だよね)、その熱気に圧倒された。いったいこの映画の何が、彼ら、彼女らの心を揺り動かしたのか。


 ハンナ・アーレントという名前が、それほど人口に膾炙しているとは思われない。なるほど、亡命ユダヤ人であり、アメリカで活躍した女性の政治哲学者というプロフィールくらいは知られているかもしれない。とはいえ、彼女の著作はつねに難解であり、けっして多くの読者にとって間口の広いものではない。その彼女を主人公にした映画、それもナチスの戦犯であるアイヒマン裁判が主なテーマとなると、およそ一般的な人気など出そうにない。不思議だ、と思いながら、岩波ホールに行った。


 昔、かなり歳をとってからのアーレントの映像をみたことがある。すごい勢いでタバコを吸う、やたら迫力のあるおばさんという感じであった。が、この映画では、とても魅力的な女性として彼女が描かれている。実際、アーレントがもてたのは確からしい。ハイデガーとの関係は有名だが、その後もモーゲンソーなど、多くの知識人から求愛されたという。政治哲学者というと、いかめしいイメージがあるが、友を愛し、夫を愛した一人の女性として、この映画ではアーレントの別な顔をよく現している。


 この映画では、ニューヨークのアパートメントで、亡命ユダヤ人とアメリカ人を含む、親しい友人たちと議論を交わすアーレントがとても印象的である。立場はかなり違う。手厳しい議論を応酬しつつ、最後は友情を確認するアーレントとその仲間たちが、この映画の基調をなしている。ユダヤ人という「民族」より、最後まで「友人」を大切にした人物アーレントというのは、この映画のとても重要なメッセージである。


 しかしながら、そのようなアーレントは大きな岐路と遭遇する。アイヒマン裁判である。この裁判を傍聴したアーレントは、後に『イェルサレムアイヒマン』という著作を世に問う。この著作は波紋を呼び、とくにユダヤ系の人々の間で大きな批判と反発を生んだ。


 ・・・・というような情報は、とりあえず知識としてもっていた。とはいえ、なぜ彼女の指摘がなぜそこまでの批判と反発を招いたのか、この映画をみるまで、実はあまりピンと来ていなかった。実に不覚であったと、この映画をみてしみじみ感じた。


 一つ目の理由は、アイヒマンの描き方である。多くのユダヤ人をガス室に送ったアイヒマンは、とてつもない怪物に思われる。この怪物を悪魔だとみなし、その巨悪を罰したいというのは、多くのユダヤ人の思いであったろう。ところが、アーレントは、アイヒマンはごくふつうの、ありふれた人間だと主張した。上に命じられたことを勤勉に処理する、小心で生真面目な人間。結果として、おそろしい大量虐殺を行いながら、それを自覚せず、ただ職務に忠実なだけと強弁し、実際、そう思っている人間。アーレントはこれを「悪の凡庸さ」と呼んだ。


 アイヒマン=巨悪、それゆえ極刑という等式を疑わなかった多くのユダヤ人にとって、アーレントの議論は不愉快であったろう。そのようなユダヤ人にとって、アーレントは民族の裏切り者であった。アイヒマンはただの俗物であり、言い換えれば、自分たちと変わらない平凡な人間であるという指摘は、ある意味で「あなただって、状況次第では巨大な悪をするかもしれない」というのに等しい。不快感がさらに募ったとしても、不思議ではない。


 さらにアーレントは、ユダヤ人指導者が、ナチに協力したことを暴露した。これはアイヒマン裁判で明らかになったことで、アーレントにしてみれば、事実をそのまま伝えているに過ぎない。とはいえ、ユダヤ人にとっては大きなスキャンダルであったろう。アーレントは、ユダヤ人指導者を直接批判することは避けつつも、「抵抗と協力の間に、他の行動がありえたはずだ」という。抵抗は難しかったとしても、かといって、単なる協力とは違う、別の選択肢があったはずだというのである。選択肢があったのに、それを選ばなかったことを、アーレントは批判する。


 この映画の主なテーマは「思考」だ。相矛盾する選択肢の間で、考え、考え、考え抜くこと。もちろん、考えたからといって、明確な答えがあるわけではない。とはいえ、どこまで考え抜けるか。そこに人間にとっての、大きな岐路がある。「思考」を放棄して、ただ「上に命令されたから」、ただ「抵抗しても無駄だから」という安易な答えに私たちは逃げていないか。それは単なる思考停止であり、思考の放棄ではないか。この映画は、アーレントを通じて、そのように私たちに問いかけているように思われてならない。