アーレント(2)

 しかしながら、そのようなアーレントの考えの代償は大きかった。多くのユダヤ人の批判を招いただけではない。世界中から脅迫状が届き、アパートメントの住民からも罵倒の言葉が届く。


 いつの時代も、その人の議論をきちんと理解することなしに、レッテルを貼付け、罵倒の言葉を投げつける人がいる。しかしながら、アーレントはそのような言葉の暴力に対し毅然と接し、自分を失うことはない。この映画の全編を通じ、傷つきながらも、けっして怒ることなく、悲しみを胸に、それでも笑顔で友人に接するアーレントが描かれる。


 とはいえ、そのようなアーレントにとっても、幼少時からの親友であり、現在イスラエルに暮らすクルトや、ハイデガー門下の古い友人であるハンス・ヨナスによる最終的な拒絶はつらい。「民族」ではなく、「友人」を選んだアーレントだけに、そのつらさは倍増する。それでもアーレントは、自らの「思考」に従い、自分の信念に従う。その代償をかみしめつつ、それでも、アーレントは、人間にとっての存在意義である、「思考」することを手放さない。


 映画のクライマックスで、学生たちに自分の信念を語り、それが圧倒的に迎えられつつも、やはりハンス・ヨナスによって拒絶されるシーンを挿入するこことで、この映画は、あくまで安易な「いい話」を退ける。それがアーレントの生き方であったというように。


 アーレントハイデガーの関係の描き方が象徴的である。アーレントは、その青年期の師であり、愛する人であったハイデガーが、ナチに迎合し、反ユダヤ主義の立場についたことに傷つく。しかしながら、アーレントは、ハイデガーを批判しつつ、生涯、彼との関係を断ち切ることはなかったようだ。その微妙な関係を、この映画はよく表現していると思う。


 自己を弁明し、アーレントにすがるハイデガーは矮小だ。だが、アーレントは、彼から学んだ「思考」という概念を手放すことはなかった。ハイデガーに対する両義的な感情を抱きつつ、アーレントはそれでも彼の「思考」という主題をたしかに受け継ぎ、ハイデガー以上に、それを生きたのである。


 この映画は、恐ろしいほど現代的だ。自分たちは、本当に「思考」をしているのか。答えがないなか、それでも「思考」する苦難と栄光を、自ら手放したり、「民族」や「世の中の当たり前」に盲従したりしてはいないか。


 どうも、この映画は男性の分が悪い。ハイデガーは矮小だし、ヨナスはあまりに弱くて狭い。そして優しいクルトも、最後は友よりは民族を選んでいる。アーレントを決めつけ声高にののしったり、世の批判を恐れて右往左往したりする人物ばかりが目立つ。夫のハインリヒだけがアーレントを受容するが、はたして彼がアーレントの苦難を根底から理解しているか、疑問が残る。


 それに比べ、最後までアーレントへの友情を裏切らない秘書のロッテや、親友のメアリー・マッカーシー。揺らぐ、結局のところ弱い男と、最後まで友を信じて、揺るがない女。


 このような映画が、いまの日本で上映され、多くの人が映画館に駆けつけているのが印象的だ。この映画はたしかに人の心を動かす。自分は思考停止に陥っていないか。本当に友を大切にし、それでも勇気をもって、自分なりの判断をしているか。このような時代だからこそ、ちゃんと生きていきたい。アーレントの思想と、現代の私たちの状況をつなぐ、とても優れた映画だと思う。


 それでも私たちの人生は続く。「思考」を手放してはいけない。人間が人間であることを手放してはいけない。