隠岐の島

 子どもの頃から、郷里ということで、島根県隠岐の島に連れてこられた。父自身、この島に住んだことはなく、いわば、「祖先の地」ではあるが、実質的なつながりは薄い。本土から60キロの離島。それでも、父は夏休みごとに、この島に僕を連れてきた。自分に言い聞かせるように、「この島に、お前の先祖は住んできたのだ」と言うために。


 その父が亡くなった。この島とのつながりもこれまでかな、と思いつつ、それでも「今年だけは」この島を訪れようと、子どもたちを連れてやってきた。


 「いいか、この島に、お前のご先祖様はいたのだぞ」と自分も二人の息子に言い聞かせる。なんだか亡くなった父親に言わされている気がする。島の人に会うごとに、父の話になる。なんだか父の役割をそれらしく振る舞うために、この島に来たみたいだ。変ではあるが、まあ、そういうものなのだろう。


 残された土地のこと、墓の管理、その他もろもろ。考えるだけで気が重くなる。すべてを投げ打って、「僕は関係ありませんから」と言いたくなる。が、そう言えずに、ある種の「役割」を果たし続ける。こういうのを親孝行というのだろうか。あまりに儀礼的で、形式的な気もするけど。


 自分は東京生まれの、東京育ちだ。こんな島のこと、僕には関係ないと言いたい。親の亡くなった今、なおさらだ。と言いつつ、ある種の「役割」をはたしている自分を、独特な距離感を感じつつ見ている。


 窓辺の外は西郷湾。天然の良港だ。北前船は、海が荒れるとこの湾に逃げ込んだ。それだけに、いろんな船人がこの湾にやってきた。「うちの祖先は、海から世界につながったんだ」と息子たちに言い聞かせる。だから、海につながっていてほしい。どれだけ、話が通じているのやら。すべてが演技がましくていけない。


 それでも何かの役割を演じていくしかない。そういう年齢なのだ、と自分に言い聞かせてみるが、さて。