『風立ちぬ』(続)

 前回から続いて、『風立ちぬ』の感想である。


 ちなみに、この映画、やたらに喫煙シーンがあることが他のサイトで話題になっていた。たしかに、主人公たちはよくタバコをすう。結核患者であるヒロインの隣で、そうしてくれと言われたにせよ、タバコをすう主人公に違和感を覚える人がいてもおかしくない。少なくとも、今日的基準からいって、あまり政治的に正しいとは言えないだろう。なぜ宮崎監督は、これほど喫煙シーンを挿入したのだろうか。


 気づくのは、主人公が信頼する人物と、言葉にならない思いを共有する瞬間にタバコがすわれていることだ。要するに、主人公たちは、言葉にならない複雑な思いを胸中に秘め、しかしそのことを互いに理解し合っているそのときに、タバコに手を出すのだ。主人公の親友でありライバルである本庄とは、軍の圧力下で、兵器として飛行機をつくらねばならない自分たちの境遇を思いつつ、タバコをすう。軽井沢で会うなぞのドイツ人とは、ナチス・ドイツへの批判をかみしめつつ、ともに煙をはく。そして、死にゆく妻に何もしてやれない自分をせめながら、何らかの言葉を口にするかわりにタバコをくわえる。


 古くさいといえば古くさいのだが、この映画において、喫煙シーンは、鬱屈する主人公たちが思いをかみしめつつ、深いレベルでの共感を相互に確認するための手段のように思える。逆にいえば、それくらい、主人公たちは、どこにも持って行きようのない苦渋を胸にかかえているということである。


 僕は、この映画は、次第に狂気に支配されゆく時代と社会のなかで、いかに正気を保つか、少なくとも、最低限の誠実さをもって生きていくのか、ということを主題としていると思う。もちろん、現代日本社会に対する宮崎監督の思いの反映であろう。そして、自分自身がどこか矛盾をもった生き方をしていると自覚しつつ、その矛盾を最大限誠実に生きようとした主人公たちを、僕たちは笑うことができるのか、と宮崎監督は僕たちに問い直しているように思えてならない。


 苦い映画である。大人の映画であると思う。