F先生を偲ぶ会

 この正月に急逝されたF先生を偲ぶ会に出席する。F先生、若い頃はかなり厳しい先生だったと聞いている。でも、僕が大学院に入って最初にご挨拶をしたときには、やさしいおじいさんという感じだった。


 僕と同期のNさんで、最初にF先生にご挨拶をしたときのことを思い出す。とある研究会でF先生のお姿を目にし、「おお、これがあのF先生だ」と興奮したのはいいのだけれど、大学院に入り立ての僕らには、伝説的なF先生に声をかける勇気などない。でも、F先生にあこがれてこの世界に入った二人、なんとか挨拶だけでもしたいものだと先生の後を追いかけた。たぶん先生の帰りがけだったと思う。二人で勇気を振り絞ってご挨拶した。何を言ったかはまったく覚えていないが、ともかく僕ら一人ひとりの研究している内容についてしどろもどろに説明したところ、やさしいおじいさんのように「うんうん」と頷いてくださったのを覚えている。正直なところ、研究者として扱ってもらったというより、おじいさんによしよしと頭をなぜられたという感覚だった。


 そのF先生を偲ぶ会に出席して、やはりこのF先生のまわりに感じられたある種の精神的な気迫のようなものを再確認した。学問の背後にある、精神的な背骨とでも言うべきものだろうか。戦後の政治学を支えた何か。今日、会でご挨拶されたM先生は、そのようなものが、F先生とともに終わりを告げたのだとお話されていた。そうかもしれない。少なくとも、自分自身を振り返り、どれだけ自分の研究に精神的な背骨があるのか、正直なところ、深刻に考えざるをえないと思った。