勉強は楽しい

ベルリンも四日目になる。といっても講義はまだ始まっていないので、すべてはここでの生活を始めるためのセットアップ作業である。一日一日と、自分の分かること、できることが広がりつつあり、海外生活の楽しさを感じる時期でもある。

 

今のところはまだ大学と自宅を往復するだけの生活であるが、語学を含め、せっせせっせと勉強する時間を取るようにしている。自分も50代に入り、気がついてみると、ともかく日々の仕事をこなしているだけの状態に陥りやすい。今後の研究者人生を考えると、ここらでしっかりと立て直さないと、あっという間に定年なんていう事態になりかねない。しっかり勉強しよう。

 

ポイントはもちろんドイツ語。院生時代にヘーゲルウェーバーを翻訳片手に必死に読んだ時期と比べても、自分のドイツ語能力が衰えているのが分かる。特に日常レベルのドイツ語は壊滅的で、一から学び直しと割り切って勉強している。老化している脳みそは、どれだけ語学勉強に対応できるだろうか。

 

もう一つは日本思想史の勉強。今回、自分は日本学科で教えるので、当然日本の話が中心になる。ここ数年、日本政治思想史の研究者からは「西洋政治思想史の研究者は、現在の日本政治思想史の研究水準をよく理解していないのではないか」という指摘をいただくことがあった。そう言われていろいろ文献を読みだすと、確かに、という気がしてくる。今回はドイツの学生さんには申し訳ないけれど、僕のにわか勉強の成果をお話しすることが多くなりそうだ。

 

いずれにせよ勉強は楽しい。日々を楽しんでいる。

はじめてのドイツ

ドイツに4ヶ月ほど滞在することになった。ベルリン自由大学で講義を行うのが目的だが、実を言うと、これまでの人生で一度もドイツに来たことがない。フランス人によくある偏見で「行くなら南」という発想に影響されたのか、イタリア、スペイン、ポルトガルギリシャには行ったことがあるのに、これまでドイツとは縁がなかった。今回を機に、腰を落ち着けてドイツをじっくり体験したい。

 

意外なことだが、日本からベルリンへの直行便がない。フランクフルトなど経済都市には直行便があるようだが、政治都市ベルリンには、どこかをトランジットして来るしかない。何となくドイツと日本の今の関係を暗示している気がする。

 

今回はフィンランド航空を使ったので、ヘルシンキでのトランジット。空港はすべて英語で、何の不便もない。英語が第一言語と割り切っている印象さえある。これに対し、ベルリンはやはりドイツ語主体。英語表記は少なく、まあ、そんなものかと思った。どこか日本を思わせるものがある。

 

荷物が多くて空港から直接滞在先に向かったので、街の雰囲気はまだわからない。今回の滞在先は旧西ベルリンの郊外住宅とのことで、穏やかな住宅地であり、ほとんど白人しか見当たらない。マルチエスニックなベルリンは明日以降、見て回ることにしよう。

 

大家さんはいかにもベルリンの穏やかな知的階級の人っぽい。いい人で、真面目。並んでいる本を見ると結構文学好きのようである。さて、この滞在中にどれだけ親しくなれるだろうか。この場所で生まれ、育ち、40代を前に戻って来たという。一人暮らしのようであるが、初対面のドイツ人にあまり立ち入ったことを聞くのは如何なものか思い、詳しいことは聞かなかった。

 

夜買い物に出かける。近所のスーパー。要領はフランスとあまり変わらない。その意味では気楽である。ビールとワインを買って帰る。ワインはともかく、ビールが安いなあと感心する。ビール漬けの生活にならぬよう、要注意である。

 

 

隠岐の島

 子どもの頃から、郷里ということで、島根県隠岐の島に連れてこられた。父自身、この島に住んだことはなく、いわば、「祖先の地」ではあるが、実質的なつながりは薄い。本土から60キロの離島。それでも、父は夏休みごとに、この島に僕を連れてきた。自分に言い聞かせるように、「この島に、お前の先祖は住んできたのだ」と言うために。


 その父が亡くなった。この島とのつながりもこれまでかな、と思いつつ、それでも「今年だけは」この島を訪れようと、子どもたちを連れてやってきた。


 「いいか、この島に、お前のご先祖様はいたのだぞ」と自分も二人の息子に言い聞かせる。なんだか亡くなった父親に言わされている気がする。島の人に会うごとに、父の話になる。なんだか父の役割をそれらしく振る舞うために、この島に来たみたいだ。変ではあるが、まあ、そういうものなのだろう。


 残された土地のこと、墓の管理、その他もろもろ。考えるだけで気が重くなる。すべてを投げ打って、「僕は関係ありませんから」と言いたくなる。が、そう言えずに、ある種の「役割」を果たし続ける。こういうのを親孝行というのだろうか。あまりに儀礼的で、形式的な気もするけど。


 自分は東京生まれの、東京育ちだ。こんな島のこと、僕には関係ないと言いたい。親の亡くなった今、なおさらだ。と言いつつ、ある種の「役割」をはたしている自分を、独特な距離感を感じつつ見ている。


 窓辺の外は西郷湾。天然の良港だ。北前船は、海が荒れるとこの湾に逃げ込んだ。それだけに、いろんな船人がこの湾にやってきた。「うちの祖先は、海から世界につながったんだ」と息子たちに言い聞かせる。だから、海につながっていてほしい。どれだけ、話が通じているのやら。すべてが演技がましくていけない。


 それでも何かの役割を演じていくしかない。そういう年齢なのだ、と自分に言い聞かせてみるが、さて。

島根県立大学における偲ぶ会挨拶

 本日はご多忙のなか、亡き父を偲ぶ会にお集まりいただき、心より御礼申し上げます。会を主催していただいた島根県立大学、同短期大学部、さらに共催としてお力添えいただいた浜田市島根県立大学浜田キャンパス同窓会、および同総合政策学部学友会の皆様に深く感謝いたします。またご挨拶いただいた清原正義学長、弔辞を賜った溝口善兵衛島根県知事、久保田章市浜田市長、市民研究員代表の牛尾昭様、同窓会代表の森田裕典様、そして別枝行夫先生にも、御礼申し上げます。また、ここ浜田に来るまで大変お世話になった江口伸吾先生、沖村理史先生にも心より感謝したいと思います。そして遺族として、ご参列のすべての皆様に深く感謝する次第です。


 父宇野重昭は、中国を中心とする北東アジア国際政治の専門家であると同時に、故郷を愛する一人の島根人でした。その父にとって、島根県立大学は「研究」と「故郷」という人生の二つの思いを同時に実現できる夢のような場所、フィールド・オブ・ドリームズでした。この島根の地において父は県立大学の創設に携わり、そこに北東アジア研究の一大拠点を形成することに貢献しました。本当に幸せな一生であったと思います。


 父は石川県金沢市に生まれました。当時、農林省に勤めていた祖父に連れられ、日本の各地を転々としたということです。そのような父ですが、思いはつねに故郷の地である島根県にありました。宇野家は、古くより隠岐島の地にあって神社の宮司であったと伝えられています。同時に、幕末には私塾を営み、地域の教育にも携わってきました。その意味では、成蹊大学での仕事を終えたのち、父が島根の地に戻り、県立大学に奉職したことは、まさに先祖の仕事を継承したとも言えるでしょう。


 父が島根県立大学の創設に関わると聞いた日のことを思い出します。当時、父は成蹊大学学長の任を終え、同学園の専務理事をしていました。その時すでに60代の後半であった父が、故郷とはいえ、まったく新しい仕事に着手することに不安がなかったといえば嘘になります。東京生まれで東京育ちの母が、はたして島根の地に馴染めるかどうかも、息子である私には気がかりでした。当時住まいのあった横浜の地で、悠々自適のうちに残りの人生を楽しんだ方がいいのではないか−−そのような思いが残ったのは確かです。


 しかしながら、両親は浜田の地で、新たな大学づくりに挑戦する決断を下しました。やがて私自身、自らの家族を連れて浜田を訪問し、そこでの父や母の様子を見て、やはり両親の決断を尊重して正しかったと確信しました。生き生きと大学や町を紹介してくれた父はもちろん、教育思想史研究者である母が、西周研究を通じて、大学内外の研究者の皆様と交流を深めているのも、とてもうれしい発見でした。70代に入って、新たな土地で、新たな人生の課題に果敢に取り組んだ両親を、息子として誇らしく思います。


 その上で、私の方から皆様にお願いしたいことがございます。


 県立大学は、島根の地にあって、北東アジアを研究する大切な拠点です。さらに本田雄一前学長の下、地域連携の体制が強化されたとうかがっております。しばしば「グローカル」と言いますが、地域に根を下ろしていてこそ、国境を超えた活躍も可能になります。21世紀の世界は、人口面においてはもちろん、政治や経済面においてもアジアの時代になるでしょう。なかでも北東アジアに張り巡らされたエネルギーや物流、情報のネットワークは、世界を駆動する原動力となるはずです。この北東アジアの巨大なネットワークのなかで日本、とくに島根県を含む日本海の諸地域に何ができるか、ぜひとも研究を進めていただければと思います。「北東アジア研究」と「島根という地域」という両輪を、見事に結びつけていかれることを願ってやみません。


 同時に地域の皆様には、大学を暖かく見守っていただければと切に願います。昨今、少子化が進むなかで大学の舵取りは難しくなるばかりです。島根の地に集まった学生さんと若い研究者を、地域を挙げて育てていって下さい。大学もまた、地域の課題解決に必ずや貢献してくれるはずです。地域の財産である大学を、大学教職員や学生はもちろん、地域の皆様の力でより大きなものへと発展させていくことこそ、天で島根を見守る父がもっとも願っていることに違いありません。


 父は、どんな若い人に対しても、対等な人間として接する人でした。また、話していると、いつの間にか、自分も勉強したい、考えてみたいと思わせる人でした。その父が島根の地に植えた種が大きく育つことを願ってやみません。


 地域を愛し、地域の皆様に愛された父の人生は幸せなものでした。


 本日は誠にありがとうございました。

偲ぶ会 遺族挨拶

 本日はご多忙のなか、亡き父宇野重昭を偲ぶ会にお集まりいただき、心より御礼申し上げます。また、会場をご準備いただいた成蹊学園・成蹊大学をはじめ、宇野ゼミ同窓会、国際政治学会、さらにアジア政経学会など、ご協力いただいた関係団体の皆様にも感謝いたします。とくに発起人となっていただいた天児慧先生、石川修さま、石田淳先生、遠藤誠治先生、亀嶋庸一先生には、お礼の言葉もございません。心温まるお言葉を頂戴した亀嶋庸一先生、毛里和子先生、清原正義先生、天児慧先生、滝口太郎先生にも、心より御礼申し上げます。そして遺族として、ご参列のすべての皆様に深く感謝する次第です。


 父は、この正月に心筋梗塞を発症し、闘病生活を送っておりましたが、去る四月一日、肺炎で死去いたしました。昨年夏には私と一緒に故郷隠岐の島を訪れ、この正月も孫たちと楽しく過ごしたことを思うと、本当に信じられない思いでいっぱいです。日中関係を中心に世界の行方を思いめぐらしていた父は、自伝的なものを始め、いくつかの著作を準備しておりました。それを世に問うことなく旅立ってしまったのは、さぞや無念であったかと思います。病室でも、トランプ大統領の就任演説を熟読している姿が印象的でした。本日お配りした資料には、父の遺稿の一部を掲載しております。


 私にとって、父は肉親であるのみならず、研究者としての先達でもあります。同じ政治学徒とはいえ、西洋政治思想史を専門とする私と、国際政治、とくに中国を中心とする東アジアを研究してきた父とでは、まったく専門が異なります。とはいえ、私の目から見て、研究者としての父には、大切な三つの中核があったように感じます。


 第一は、膨大な資料を渉猟しつつ、多様な人々の思いや動きを多面的に捉える実証的な研究者としての顔です。私が子どもの頃、父といえば、大相撲のテレビ中継をつけながら、新聞や雑誌の切り抜きを、いつ終わるともなく続けていた姿を思い起こします。あまりに地道な作業に、正直なところ、「研究者にだけはなるまい」と子供心に深く思ったほどです。とはいえ、人を単純なイデオロギーで裁断しない、時代の中で翻弄される一人ひとりの人間に寄り添って考える、といった父の研究者としての姿勢は、あの地道な作業に基づいていたのだとあらためて思います。中国に対する父の見方も、けっして単純ではなく、多面的でした。父は西洋的基準を押しつけるのではなく、中国をあくまで内在的に理解しようとしました。一方、中国もまた一枚岩でなく、その多様な要素が世界との相互触発においてどのように展開していくかを見ていこうとしました。父は最後の日まで、流動する世界の中での日本と中国の関係について考え続けていました。そのような父を、私は深く尊敬しています。


 第二は教育者としての顔です。父は大学を愛し、学会を愛し、さらには市川房枝記念会や大学セミナーハウスの十大学合同ゼミなど、様々な場で、学びの思いに燃える方々と接することを何よりも愛していました。怠け者の私には思いもよらぬほど、父は多くのエネルギーと時間、そして愛情を教育に注ぎ込みました。その際、E・H・カーの『歴史とは何か』、マンハイムの『イデオロギーユートピア』、さらにケルゼンの『民主主義の本質と価値』、ニーバーの『道徳的人間と非道徳的社会』などがテキストとして繰り返し用いられていました。私はそこに矢内原忠雄先生を始めとする諸先生に学んだ父の、20世紀最良の教養主義の遺産を見出します。父はこれらのテキストを多くの皆さんに繰り返し説き続けました。その「凄み」を、私は今でも感じています。


 第三は、水俣や中国の小城鎮などでの調査に見られる、フィールドワーカーとしての父です。子どもの頃、家にはまちまちな形の夏みかんがたくさんありました。ひどく酸っぱかったのを覚えています。なぜだろうと思っていたのですが、あるときそれが水俣のものであることを知りました。父は鶴見和子先生をはじめとする多くの研究者や石牟礼道子さんといった方々と、日本や中国の地域に入り、そこで人々に接し、現場から多くを学んでいきました。その意味で、鶴見先生や父のいう「内発的発展論」は決して抽象的な理論だったとは思いません。それはフィールドを回る父の実感ではなかったでしょうか。思想史研究者である私が岩手県釜石市福井県、そして父の郷里である隠岐の島などで地域調査をしているのも、ささやかながら、そのような父の姿を追っているものと言えます。


 昨日、父の納骨式を終えました。七年前に母に先立たれて以来、一時は再起できないほどのダメージを受けた父ですが、それでも再び気力を取り戻し、最後まで自立した生活を過ごしてきました。その間、私と父は二週に一度くらい、一緒に墓参りに出かけ、その際にいろいろな議論を交わしてきました。今、父と母は再び天で一緒になり、楽しく語り合っていることと思います。


 今後、非力ではありますが、私なりに、父の仕事の一部でも受け継いでいければと思っております。本日お集まりの皆様が、様々な父の言葉や振る舞い、あるいは仕草のうちの何かしらを心に留めて下さり、そこから今日を生きるための精神的エネルギーを汲み取り続けていただけるのなら、遺族としてこれにまさる喜びはありません。


 ちなみに父は自らの墓碑銘に「練達は希望を生ず」という言葉を残しております。希望とは単なる楽観ではなく、信じて、耐えて、練達の上で初めて生じるものであることをこれからも肝に銘じて生きていきたいと思います。


 本日はありがとうございました。

喪主挨拶

 本日は年度始めのお忙しいなか、亡き父の葬儀にご参列いただき、まことにありがとうございます。


 父は年初に心筋梗塞で病院に入院し、医師や看護師の皆様のご支援の下、なんとか病を克服して再び研究、著作の生活に戻るべく努力を続けておりましたが、最後は肺炎でこの世を去りました。


 病室で父が繰り返し「あと、2年欲しい」と申していたことを思い出します。自らの人生を振り返りつつ、学問と人類社会を展望する本を準備していた父にとって、その思いを遂げることなくこの世を去ったことは痛恨の極みであったと思います。しかしながら、父のコンピュータの中には、その準備草稿らしきものも残されています。これを世に出すべく努力する一方、何より、高き理想を求めつつ、現実社会の矛盾と向き合って行くことが、父の意志を継承することであると考えています。同じ政治学徒として努力していく所存です。


 子どもの頃より父は私にとって大きな存在でした。努力家で、絶えず周りに配慮し、多くの人のために努力する父の姿は、時に尊敬すべき、時に重すぎるお手本でした。少しばかり自分に厳しすぎるのでは、と思うこともありました。その父にとって最大の試練は母の死でした。母が急死したその日、立ち上がることすらできない父の姿を見てショックを受けたことを思い出します。「すぐに母を追う」、そんな弱気の言葉もありました。しかしながら、1年、2年とたつなかで父は生きていく気力を回復していったように思います。それは父の強い意志とともに、ここにお集まりいただいた多くの方々のご支援、励ましの賜物と思っております。


 ほぼ2週に1度、父と共に母の墓地に行くのがここ数年の私の習慣でした。墓参りを終えた後、一緒に墓地のお蕎麦屋さんに行き、私の書いた最近の著作や記事について、父のコメントを聞くのが楽しみでした。父は自らの信念に基づき、つねに厳しい批評者でしたが、同時に若い私を最大限配慮し、励ますように喋っていることがわかりました。


 その父はもういません。いよいよ自分で自分を律し、人と社会のために尽くす時期であると父が私に言っているように思われてなりません。そして父は今、最愛の母とともに天で安らかに休みつつ、人類社会の未来に思いをいたしていることと思います。


 本日、父の尊敬するH先生の司式の下、父を愛して下さった皆様に見送っていただき、父も心より喜んでいることと思います。改めまして、父に対する生前のご厚意に感謝申し上げるとともに、父亡き後も、変わらぬご厚誼を賜りますようお願い申しあげます。本日はありがとうございました。

2016年

 2016年もあと10分で終わりである。今年はどんな一年だったのか。


 本は久しぶりにたくさん単著(編)を出した一年だった。論文集『政治哲学的考察』、新書『保守主義とは何か』、それから戦後思想のアンソロジー『民主主義と市民社会』。アンソロジーも、100枚の解説とナレーションを含めると、薄手の新書分くらいの量を書いた。少なくとも、今年の前半はよく本を書いた一年だったと言えるだろう。


 4月以降は、大学の総長補佐の仕事に忙殺された。財務から始まって、国際、男女共同参画、人文社会系振興、図書館などを担当。これまで部局のことしか考えていなかったが、大学全体について考えた一年だった。大学全体の予算の透明化、女性の教員、職員、学生がもっと活躍できる大学への試み、世界の中での日本の大学の生き残り、そして問題の図書館。このうち、いくつかの仕事については、批判を含めて、世の話題にしていただいた。いろいろ問題があることは深刻に承知している。それでも一つひとつ事態は少しずついい方向に向かっていると信じている。もう少し、お待ちください。


 大学、特に国立大学をめぐる厳しい状況が明らかになった一年でもあった。人文社会系が問われた年でもあった。今後、状況はますます難しくなるだろう。正直なところ、大学をめぐる下部構造がここまで悪化しているとは、十分に自覚していなかった。来年は日本の国立大学にとって、真骨頂を問われる一年になると思う。ここまで大学が追い込まれてしまったことを、愕然とした思いとともにかみしめている。


 来年は年齢的にも大台だ。いつも思うが、カントは50代になってから三批判書を書いた。自分にとっての『純粋理性批判』をいつか書きたいと、真剣に思っている。学者として、大学人として勝負の年になると思っている。