とある記憶

 何と言うか、いまさら何を書いても、自己正当化というか、自己弁明にしかならない気がするのだけど、それでもとりあえず書いておく。友人Kの最期の話である。


 友人Kは大学のサークルの一年後輩で、その後、別の国際交流団体でも一緒になった。彼は僕のことを終始一貫、ファーストネームで呼んだが、僕的には(いちおう、俺の方が先輩なんだけどね)といつも思っていた。まあ、今となってはどうでもいいんだけれど。


 友人Kはがんばって、とある公務員試験に合格した。僕は彼が某国の古き伝統ある大学に留学中、遊びに行ったことだけ覚えている。ひどく古い宿舎で、彼の部屋もなんだか、傾いている気がしたけど、彼がその大学の卒業式のガウンをうれしそうに見せてくれたことを何となく思い出す。


 その後の彼のことはあまり知らない。ある時期、ちょっとだけ頻々と会うことがあったけど、その後は音沙汰無しに戻った。まあ、しつこいくらいFacebookに投稿する人だったので、その近況はいつもフォローはしていたけど。


 彼が外国にいた頃の話である。がんになったという報に接した。臓器の全摘が必要ということで、かなり深刻な状況であることがわかった。連絡をとったが、笑顔の絵文字だけ、レスポンスがあった。まあ、そういうことなのだろうと思うしかなかった。


 その後、一年程、ネット上でのやりとりが続いた。彼の書く記事はいつも明るく、なんとかく、彼はこのまま病気とともに生き続けるのではないか、そんな気がするようになった。


 でも、昨年の秋頃、腹水の話が多く出るようになった。かなり悪いのだろうな、ということはわかった。それでも、僕は特別の行動に出なかった。今から思えば、恐かったのだと思う。直接会って、何といえばいいのか、わからなかった。結局、そのままときが流れた。


 Facebookで、彼が故郷の町に戻るという記事が出た。もう、病院での処置のしようがなく、終末ケアに入るのだろうな、ということが想像できた。それでも、僕は彼のところに行かなかった。サークルの後輩が病室を訪ね、それを彼が喜んでいる記事も目にしても、「良かったね」と思いつつ、結局、自分は会いに行けなかった。


 彼が故郷の町になんとか戻り、ケアの病棟に入った記事が出た。僕は「いいね」のボタンを押すだけで、やはり何のアクションもとらなかった。彼の書き込み記事をみると、相変わらず明るく、病気からの回復後の話を書いていた。ひょっとしたら、この人は病気を克服し、なんとか生き続けるのかもしれない、そんな気も一瞬した。


 でもやはり、彼の書き込むは減っていった。文章の記事がなくなり、いろいろな記事の紹介だけになった。もう、自分で文章を書くのは難しいのだろうな、そう思った。やがて、紹介記事すら更新がなくなった。一日、二日、三日、、、もう難しいかもしれない、そう思った。


 僕は年に1回か2回しか風邪を引かない。それでも、よく12月頃に、疲れがたまって、熱を出す。そんな日のことだ。夢に彼が出てきた。なにか、言ってくれると良かったのだけど、残念ながら、何も覚えていない。ただ、熱でふと起きた際に、「今朝、Kが死んだんだろう」、ふとそう思った。それでもFacebookを見ると、特段の更新がない。再び、布団に入った。


 昼頃だろうか、ふと目が覚めて、PCを立ち上げた。とある友人から、Facebookを見ろとメッセージがあった。見たら、彼の妹さんが、お兄さんの死去について書いてあった。「やはり」と思った。


 急に、世俗的になるのが、悲しい性である。とりあえず、花を送らないといけない、そう思った。ネットで手続きをしつつ、なんだかいやな感じだなと感じた。でも、手続きをした。みんなに連絡もした。ビジネスライクだな、そう思いつつ、またふとんに戻った。


 葬式はつつがなく行われたようだった。遠い場所だし、熱があるし、と僕は見送った。それでも、そのあと、自ら出向いてお別れしなかったことを、後悔することになる。まあ、人生いつも、覆水盆になんとか、という話である。


 その後、葬式の話を何度か耳にした。あれで良かったのか、いつもそう思う。いまだ、答えはわからない。自分に何ができたのか、後ろめたい気がする。あのとき、直接会っていたら、何と言っていたのか。いまでも自信がない。


 ああすればよかった、でも、どうしたら本当によかったのか、やはりわからない。そんな毎日を過ごしている。