今度の選挙について

 あまりこのブログでは政治的なことを書かないようにしていたのだけれど、今回はやや例外的に、先日公示されたばかりの総選挙について述べたい。


 今度の選挙、いまひとつ盛り上がっていないと聞く。「いまなら勝てる」という理由だけで、この忙しい時期に不要な選挙をする安倍政権も安倍政権なら、「勝つためにはバラバラでは駄目だ」という理由だけで、どう考えても呉越同舟なのに候補者の一本化を進める野党も野党だ、というわけである。勝手なことばかりしている人たちのために、何で僕らの貴重な時間と貴重なお金を使わなければならないのか。つきあっていられないよ、というところだろう。


 正直いって、この理屈はおかしいと思う。それを説明するために、19世紀イギリスの思想家ジョン=スチュアート・ミルの話をしたい(いま、ちょうどゼミで講読していることもあるけど)。


 ミルといえば『自由論』であるが、政治について本格的に論じた書物としては、もう一冊の大著『代議制統治論』がある。この本の第10章でミルは意外なことを言っている。しばしば投票権(原語はsuffrageであって、voting rightではない)というけれど、実はこれは権利ではないというのだ。


 権利なら好きに使っていいはずだ。場合によってはあえて使わない(=棄権する)という選択肢もありうる。これに対しミルは、投票権は権利ではなく信託(trust)であり、社会からその個人に課された責務なのだと主張する。


 自由主義者であるミルにとって、すべての人が、自分に関することを自分で決める権利をもつのはあたり前である。逆に他人に関してあれこれ命令する権利などない。とはいえ、政治というものはどうしても、社会の多くの構成員に関することを決めざるをえない。だとしたら、政治に関して決定する権利は本来、権利ではないのだ。それはむしろ、公共の利益に照らして、社会がどうあるべきかを判断する責務なのである、とミルはいう。


 このようなミルにすれば、投票権とは、社会から託された、社会のあり方について自分の考えを示すという責務である。さらにミルは、権利ではなく公共の責務である以上、投票は公開の場でなされるべきだと主張し、秘密投票を否定する。ここまで来るとちょっと、「う〜ん」という気もするが、投票権は権利ではなく公共の責務なのだ、という彼の理屈には、傾聴すべきものが含まれているように思われる。


 このミルの理屈を、今度の選挙にあてはめてみるとどうだろう。もし仮に、人々の代表として公共の利益のために働くべき代議士たちが、自己利益だけを考えて、その職務を全うしていないとしよう。そうだとすれば、有権者のつとめは何であろうか。間違いなく、「勝手なことばかりをしている人たち」を、さらに勝手にさせておくことではないはずだ。むしろ、自分たちの代表が勝手なことをしないよう、しっかり見張ることこそが責務なのではなかろうか。


 自分の代理人がなした不始末は、本人の不始末とみなされる。もし代理人が勝手なことをすれば、勝手にさせておいた方が悪いのだ。「そんなことを委ねてない」と、後から見苦しく言うくらいなら、きちんと代理人をチェックすべきなのである。


 選挙について疑義があるなら、その疑いは選挙の場で晴らすべきではなかろうか。