プラグマティズム

 月末が近づくと締め切りが重なりパニックになる。といいつつ、いろいろ他の本に手を出すのはいつもの通り。最近はなぜか鶴見俊輔の本を読んでいる。


 きっかけといえば、プラグマティズムだ。去年の暮れ、コーネルのとある先生と話しているとき、(相手)「アメリカでオリジナルな哲学というと、まあプラグマティズムだよね」、(自分)「そうでしょうね。僕もデューイとかジェームスとかは関心あります」。(相手)「いや、ディーイやジェームスは、まあ、何と言うか、哲学者としては超一流ではない。やっぱりすごいのはパースだ。パースは哲学史上でも天才の一人だね。パースと比べるとフーコーなんかも、単なる秀才にすぎないね」。


 まあ、この人の評価が正しいかはわからないけど、がぜんプラグマティズムに関心をもちなおし、いろいろ読むことに。で、コーネルの図書館で見つけた本の一冊が鶴見の『アメリカ哲学』。昔読んだ気がするけど、あらためて目を通すと、アメリカにいるせいか、いろいろビビッドに感じる。鶴見もやはり(自分にはよくわからないと言いつつ)パースを高く評価している。


 鶴見にはデューイについての本もあるが、やはり彼が転向研究をはじめ、現代日本社会研究をおこなったその実践こそが、彼にとってのプラグマティズム理解をよく示していると思う。鶴見というプリズムを通してみると、プラグマティズムというのが、思った以上にあなどれない思想であることがわかる。リチャード・ローティやコーネル・ウェストなどアメリカ左翼も、アメリカ思想を貫くプラグマティズムの水脈においてよりよく理解できるのではないか。