1968

 コーネル大学のアジア図書館をうろついているうちに、小熊英二『1968』を見つけた。日本でも買ってはあるのだが、つん読のままだ。さすがに上下2巻をていねいに読む時間はないので、飛ばし飛ばしではあるが、読んでみる。


 相変わらず、この本の著者は読ませる。あげられているエピソードの一つひとつは面白いし、68年を脱神話化する書きっぷりもさすがである。しかしながら、結局のところ、68年は政治運動として見ればまったく未熟であり、むしろ急激な大衆化と都市化が進む社会の中での、「現代的不幸」に悩む若者たちの自己確認運動として理解すべきであるという評価については、まあ、そうだろうね、としか言いようがない。当事者たちや、この運動に共感をもつ人ならば反論もあるかもしれないが、多くの読者にとっては驚きはないだろう。少なくとも謎解きの面白さはない。


 ジル・リポヴェツキーがフランスの5月革命について、あの本質は政治革命ではなく、若者たちの現代的個人主義の現れとして見るべきだと主張したのと、どこか通じている。


 著者自身、この評価で人を驚かせようと思っていない。本の最初からこのことを言い切って、以下最後までトーンは変わらない。その意味で、この本はいかにも長くて、暗鬱である。それでも、著者は延々資料を読み解き、叙述を続ける。いろいろな意味で異様に長いこの本を執筆した著者を突き動かしたのは何なのか。


 著者は前著で「戦後民主主義パラダイムを歴史的に再検討したわけだが、この本でも「一九七〇年パラダイム」の議論が面白い。世の中で一般に68年の思想的意義とされるものが、実は事後的に形成されたものであり、ここで作られた「近代化し管理社会化した日本と、その経済的果実を享受する「日本人」が、貧しいアジアとマイノリティを搾取し、管理社会からはみだした人々を抑圧している」という言説こそが、その後のいわゆる「サヨク」のイメージを決定したという著者の主張はなるほどと思わせる。


 評価の難しい本である。