村上春樹のスピーチ

 だいぶ時期をはずしたが、ようやく村上春樹エルサレム賞受賞のスピーチ全文を読んだ。「卵」と「壁」の比喩については、報道で知っていたが、単にイスラエルによる軍事行動を非難するだけでなく、文学者らしく、より普遍的なテーマを念頭に置いたものであることがわかった。


 「卵」とは、一人ひとりの人間存在の取り替えのきかなさである。そして「壁」とは、そのような一人ひとりの人間の「卵」としての存在をからめとる「ザ・システム」を指す。「壁」は、「卵」を守るために生み出されたものだが、やがては「卵」を踏みにじるようになるとした上で、村上春樹は、仮に間違っているとしても「卵」の側に立つと宣言する。う〜む。


 面白いと思ったのは、珍しく、彼が自分の父親を語っている点である。村上は、これまで(教師であったという)彼の父親について、口を閉ざしてきた。父親との葛藤をほのめかす発言は何度かしているが、あえて父親については語らないという強い意志のようなものがうかがえた。今回は、その自己規制を珍しく破ったわけだ。その上で、父親から受け継いだ数少ないものの一つに「死のプレゼンス」を指摘しているのが、面白い。


 「卵」、「壁」、そして父親から受け継いだ「死のプレゼンス」の感覚。自らの文学観を語るとともに、現代世界の政治情勢についてはっきりした立場を示す、さすが村上春樹と思わせるスピーチだったと思う。