『職業としての政治』

 Daichiのスイミング以外は、ひたすら机にしがみつき、採点。まだまだ先は長い。


 今回、一問はまことに古典的ながら、ウェーバーの『職業としての政治』から。「政治にかかわるということは、暴力とかかわることであり、デーモンとの契約なのである。政治においては、善から善が生まれるとは限らず、しばしばその逆が真である」という例の一節を引用して出題する。


 正当な物理的暴力の独占としての国家という話と、信条倫理と責任倫理の区別あたりをからめて論じてくれれば、一年生の政治学入門としてはとりあえずはオーケーである。しかし、ちょっと気になる答案が多数見られた。


 ウェーバーの主張するところでは、最終的には人の命を左右する決定を下すことができる政治家には、通常以上に重い責任が求められる。普通の人の場合、罪を犯しても悪意でなければ過失とされ、罪は減じられる。しかしながら、政治家の決定の場合、仮にその意図は善意であったとしても、結果が悲惨であれば、その責任を取らされる。意図の善意は何ら免責理由とはならない。というような話であるのだが、答案で目立つのは、「政治家に求められるのは結果だけであり、その意図の善意悪意は問題ではないとウェーバーは言う」、「しかしながら、このような発想はよろしくない。政治家は倫理的にも高いものを持つべきである」というものである(まあ、ある意味、模範的な答案だよね)。


 たしかにそのように理解できる部分はあるのだが、これだと「結果がすべて」というような話になってしまう。答案にはさらに、「政治家はいかなる悪しき手段を用いても、結果がよければ許容されるべきである」という論旨を展開する人も目立つ。う〜む、ウェーバーは政治家に倫理的要求をすることを放棄したり、目的は手段を正当化する、というような話をしているわけではないんだけどね。


 なるほど、そういう風に受け止めたわけだ、と感心する。テキストの解釈は開かれている。自分の理解を押しつけるつもりはない。ただ、政治学を教えることの微妙さ、おもしろさを改めて感じるだけである。