68年の世代

 昔、フランスにいるとき、「そういうもんか」と思ったことのうちに、「68年の世代」(日本で言えば、全共闘世代が近いが、微妙に違う)の持つ意味がある。


 強く印象に残っているのは「アリアンセ・フランセーズ」の女の先生である。ふだんは、いかに語学学校の教師のおかれた社会的待遇が悪いか、るる愚痴をこぼしていたのだが、こと話が68年の話になると目の色が変わる。68年は若者の力で社会を変えた一大転機であり、女性の社会進出が進んだのも68年の勝利ゆえなのだ、と誇らしげに語る彼女の表情をよく覚えている。まあ、フランスの68年の評価が何であるにせよ、彼女にとっては間違いない勝利であり、その勝利の担い手のひとりとしての自分、というアイデンティティは不動のものであるようだった。68年は、少なくともフランスのある種の人々にとっては、「成功体験」なのである。


 それに比べ、日本の68年の評価は微妙である。もちろん、その意義を高く評価することは可能であるし、そう評価している人もいるだろう。が、社会全体として、あの事件を「成功体験」として語る、そういう語り口は確立していないように思う。


 なんて書くのは、今日高山宏『近代文化史入門:超英文学』(講談社学術文庫)を読んだからだ。高山宏は、先日とりあげた四方田犬彦『先生とわたし』にも出てくるが、彼と同じく由良君美の影響を強く受けている。高山の本も四方田の本と同じく、とても面白かったのだが、どうにも鼻につくのが、いかに自分が当時の英文学の権威と戦い、そしていかに自分たちの主張が正しかったのか、そしてその証明として自分と自分の仲間たちが、現在いかに活躍しているのか、ということを、繰り返し繰り返し述べている点である。彼らもまた、「68年の世代」であろう。彼らは全共闘世代より後の世代であり、闘争の対象も異なる。が、既成の権威と戦い、新しい知的運動を推進した自分たちという自意識を持ち、そして英文学において指導者であった由良君美を強調している点において似ている。裏を返せば、日本において、やはり彼らの世代の「勝利」が自明ではないこと、むしろあらためてその「勝利」を強調せざるをえないことを意味しているようにも思われる。


 そういうことを「鼻につく」というのは、意地悪な見方なのだろう。ただ、やはりフランスと比べ、広い意味での68年が一つの「成功体験」として一定の社会的認知を受けているか否か、ということは、それなりに重要な意味を持つように思われる。そしてそういう認知を求める闘争が、日々展開されている、ということなのだろう。