「忙しい」

 3月号の『論座』を読んでいたら、森千香子さんという方の「『倒れる』人たちと『忙しい』人たち」という文章を見つけた。なぜ駅伝の選手はたすきを渡したあと倒れ込む人が多いのかという話題から、現在、なぜ人は互いに顔を合わせるたびに「忙しい、忙しい」と挨拶のように言い合うのかを考察する文章。誰もが忙しいのはたしかなのだが、それだけではなく「忙しい」ことが一つの規範になっているのではないかと、森さんは言う。


 まあ、たしかに、最近はともかくも「忙しい」と言わないと、会話が始まらないという印象さえある。お互いに「忙しさ」競争をして、より「忙しい」と言った人の勝ち、みたいな。逆に「忙しくない」なんていう人がいると、なんだか腹がったってくる。変な話である。


 この間読んだ内田樹の本では、現在の日本の家族は、互いに「疲れた」という顔をし合い、不機嫌競争をしているようなものだ、と言っていた。自分をより不機嫌に示した人が、より大きな発言権を持てるというゲームなのだそうだ。


 これじゃあいけない。僕もついつい家でくたびれた顔をしてしまう。もうちょっと楽しそうな顔をしないと。でも森さんのエッセイは、笑いを絶やさないことが抵抗だ、とにこにこしていたら、「こんなに忙しいときに楽しそうですね」と嫌みを言われた、という話で終わっていた。やれやれ。