日本語

 冷泉彰彦『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書)をいただいたので、早速読んでみる。ある意味、実に大胆な試みだ。小泉首相のことから、キレる若者、女子アナ人気、中高年の自殺、2ちゃんねる、その他その他、現代日本における様々な現象を、すべて日本語論として読み解くというのが、この本のねらいだ。


 しばしば日本語はあいまいな言語であると言われる。文脈や話している人の間の関係に、大きく依存する言語であり、客観性に乏しいというわけだ。筆者は、これに対し、日本語は、多様な状況や関係を微妙かつ効率的に伝えることが可能な言語であるという。ただし、コミュニケーションの前提になる文脈理解の共有が断片化し、複雑化が加速的に進む日本社会では、このことがむしろあだとなり、日本語は現実に追いつけなくなっている。多くの人、とくに男性の側にこのことは著しく現れており、一種の失語状況が見られている。筆者は、これを日本語の「窒息」と呼び、その視点から、多様な現象を読み解いていこうとする。


 その分析はおおむね適切だと思うし、あげられている具体例もなかなかおもしろい。「だ・である」調と「です・ます」調をまぜる話法は(小泉とかみのもんたは好きだよね)、上に立つ側にとって有利であり、下に立つ側に対してはむしろ権力的に作用する、なんていう分析は「へ〜」と思わせる。また、最終的に筆者が示す処方箋、すなわち、何より大切なのは話者間の平等性を回復することであり、とくに一対一ではない、多数の会話においてはむしろ「です・ます」調の方がいい、なんていう意見にも賛成できる。


 しかし、そういう話を聞くとすぐに思うのは、他の言語はどうなのだろうか、ということである。フランス語なんて客観的かもしれないけど、現実の変化への対応なんて、実に緩慢である。結果的に、若者たちは、正しいフランス語とは全く別のフランス語を話し、両者は乖離するばかりである。そういうのと比較すると、日本語はどうなんだろう。ある意味、きわめて時代時代に応じて変化のスピードがはやいが、それゆえにむしろ、現実をうまく表現することができなくなっているというのは、ちょっと逆説的に聞こえるのだけど。