柄谷行人と見田宗介

 で、岩波新書の話である。何が、「で」なのかよくわからないけど。


 新しい岩波新書のうち、僕が最初に手を出したのは、やはり柄谷行人『世界共和国へ』と見田宗介社会学入門』であった。これも、何で「やはり」なのか、わからないけど、僕なりには理由があるつもりだ。この二人、僕が学問を志し、大学院に入る前後にもっとも影響を受けた人物なのである。今、僕が書くものを読まれる方には、どこにこの二人の影響があるのだと言われそうだが、それでも、この二人が僕に残した影響は小さくないと思う。文体も、書く内容も、かなり対照的な二人だが、知の世界というのは、なんだかよくわからないけど、わくわくするものだ、という感触を僕に与えてくれた点では共通している。


 柄谷の本は、最初、『探求』から『トランス・クリティーク』まで追っかけてきた柄谷ファンにとっては、相変わらずの本に見えるし、柄谷を知らない人にとっては、あまりに用語法や論法が柄谷ワールド的であるように見え、どちらの読者も満足させない、虻蜂取らずな本に思えた。が、読み進むにつれ、明らかに柄谷はこれまでの議論の延長線上にさらなる一歩を踏み出したように感じられるようになった。柄谷は、ここ数年、カントの批判哲学とマルクス資本論とをパラレルなものとして読み、現代資本主義の暴走への抵抗の可能性を、生産ではなく消費の場に見いだそうとしてきたが、その点においてはこの本でも変化はない。が、柄谷はこの本の中で、ついにかなり本格的な国家論を展開しており、これはかなり読みでがあると思う。またプロレタリアート化の本質を、生産を行った労働者が、自らの作った商品を今度は消費者として買い戻す、そのサイクル性に見いだしている点も、僕にとっては、けっこう「なるほど」と思えた。まあ、こういう柄谷の議論の荒さを嫌うか、そのスケールの大きさを好むかは、かなり好き嫌いが出そうだけど、僕は少なくとも、久しぶりに柄谷らしい、わくわく感のある本だと思った。


 見田の本については、また今度。