英文雑誌

 このブログでも何回か書いたが、僕は職場で編集している英文雑誌の編集委員をしている。この雑誌は、オックスフォード大学出版局から出版され、すでに社会科学的な日本研究の国際ジャーナルの一つとして認知されている。


 とはいえ、正直いって、この編集委員の仕事は楽ではない。毎回、かなりの数の投稿論文を読み、レフェリーにかけるか議論し、かけるとなれば人を選び、返ってきたレフェリーレポートを元に採否を決定する。条件付き採択の場合など、著者との間で、何度もやりとりを繰り返すことになる。委員会での議論も、一つ一つの論文につき、かなりの時間をかける。このプロセスをていねいにやればやるほど、雑誌のクオリティが高まることを知ったのは、この委員をやったことの意義の一つである。とはいえ、毎回、委員会が終わると、ぐったりするのも確かである。


 この編集委員会が僕にとって意味があるのはそれだけではない。この委員会のメンバーの半分は、外国人スタッフである。彼ら彼女らはいずれも、アメリカやイギリスなどで博士号を取得した日本研究者である。議論をしていていつも感銘を受けるのは、やはりその評価のたしかさ、フェアさである。もちろん、一人ひとりの好き嫌いはある。しかし、全体として、とてもバランスがいい。やはり、レフェリー雑誌文化の定着の度合いの違いかなあ、と感じる。


 あと、やはりどうしても毎回思うのは、自分の専門とする思想史が、はたして社会科学か、ということである。思想史的知見は社会科学にとってきわめて重要であると僕は思っているが、やはり論文のスタイルの違いは否めない。方法論、データ、分析を明快に書き分ける他の論文と比べ、思想史の論文は異質である。その意味でも、委員会の議論は、カルチュラル・ショックの場となる。


 いや、それにしても、いい訓練の場である。