『硫黄島からの手紙』

 パリでのある晩。7時過ぎにホテルに戻り、なんだか手持ちぶさたになってしまった。そこでふらふらと近所の映画館へ。ちょうどその日がクリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』が封切りだった。日本にいたらたぶん見なかったであろうこの作品、フランス人の反応にも関心があり、旅先の気安で飛び込みで見てみることにした。


 初日ということもあるのだろうが、場内は満員。切符を買う際にも「あと4席しかないけど、いいか」と聞かれた。中にいるのはごくふつうのおじさん、おばさん。やや年齢層が高いか。音声は吹き替えなしの日本語版である。パリの映画館で、日本語による、アメリカと日本の戦争映画を見るというのも面白い経験だ。逆に言えば、フランス人の観客はこの映画にいったい何を期待しているのあろうか。イーストウッドのファンなのか?


 それにしてもアメリカ資本で、アメリカ人監督による、アメリカ映画なのに、全編を通じて、主要登場人物はほとんど日本人、会話はすべて日本語ということに驚く。アメリカ人はほとんど「他者」としてしか描かれていない。このような映画を作ったことに、イーストウッド、あるいはプロデューサーの懐の深さを感じる。会話も自然であり、ほとんど外国映画とは思えないことにも感銘を得る。日本軍における精神主義、暴力性がきちんと描かれている一方、司令官である渡辺謙演じる栗林や、伊原剛志演じる西など、リベラルな知米派の人間性や勇気についても感動的に描かれている。逆にアメリカ軍人による残虐行為にも触れられている。戦争というものがつねに残酷なものであり、どちらかに絶対的な善があるわけではなく、いずれの側にも非人間性があることを強調するという意味で、きわめて現代的な戦争映画と言えるだろう。


 観客は二宮和也演じるパン屋出身の西郷二等兵の視線から、この戦争を見ていくことになる。「なんでパン屋の自分がこんなところに来て、死ななければならないのか」という西郷の内面は、現代人にとっても素直に感情移入できる。渡辺謙もうまいが、この二宮君も悪くない。ひたすら絶望的で残酷なストーリーだが、この若者とその仲間が、ヒューマンな要素を映画にもたらしてくれている。


 テーマは、戦争という、政治による巨大な装置を前に、個人の人生はまったく無力であり、戦争の自己運動によって無意味に圧殺されてしまうが、そのような中一人ひとりの人間は、いかに自分の尊厳を見いだしうるか、ということにある。ちなみに帰りの飛行機では、この作品の対となる『父親たちの星条旗』を見たが、そこでは欺瞞的に英雄にされてしまったアメリカ人兵士たちの精神的苦悩が描かれていた。そこでのテーマも、政治を前に、一人ひとりの人間が自らの誇りと自尊心をいかに守りうるか、であった。二作品はいろいろな意味で補完しあう内容になっている(一方では日本人軍人が物言わぬ他者として描かれ、他方ではアメリカ人軍人が同じく物言わぬ他者として描かれている)。


 ともかくイーストウッドに感心した。しかし、それにしても、彼はなぜこのような映画を作ったのだろうか。その意図を知りたくも思う。