コレージュ・ド・フランス

 昨日はピエール・ロザンバロンの講義に出席。僕がフランスにいた頃はわりと身近な存在に感じていたが、今ではコレージュ・ド・フランスの教授である。が、あのきまじめな話しっぷりは変わらない。


 それにしても大教室がいっぱいである。なかなかの人気だ。しかし前と違って、席を埋めるのはおじさん、おばさん。コレージュ・ド・フランスの教授の義務は市民に向けての一般的講義をすることなので、聴衆は学生というより、一般の(物好きな)人たちである。


 といってもカルチャーセンターのようなものを想像してはいけない。内容はいたって専門的。あのフーコーだって、その若い晩年、ほとんどすべての研究エネルギーを、このコレージュ・ド・フランスの講義に費やした。ロザンバロンの話も、正直いって、完全に専門家向けである。


 しかし聞いているのは、どうみても、普通のおじさんおばさん。もちろん、こういうところに来るのだからある意味で向学心の強い、また別の言い方をすれば知的スノビズムの強い人たちである。とはいえ、どう見ても研究者ではない。どういうつもりで彼らはここに来るのだろう?


 ロザンバロンの講義は、かつての社会集団ごとの社会保障の時代から、現代における明確な社会集団の消滅、個別化したマネージメントの時代へという、いつもの話から始まり、後半では、ルソーの一般意志に代表される一般的な代表制の時代から、複合的な代表制、あるいは複合的な正統性の時代へという変化についての話だった。19世紀のフランスの労働法の話をするかと思うと、アメリカの州レベルでの法曹の任命のあり方の議論に移るなど、あいかわらずの博覧強記、実に密度の濃い議論であった。


 それにしても、具体的な話も織り込まれるとはいえ、基本的にはきわめて抽象度の高い議論が続く。こんな話、聞いているおじさんおばさんにとって、面白いのかな。


 今年度最終講義と言うことで、最後は盛大な拍手で締めくくられる。それにしてフランスの知的スノビズムは健在だと思った。