波濤

 釜石での調査に先立ち、釜石が出てくる映画ということで、林芙美子原作・原研吉監督の『波濤』を見る。1939年の作品で、東京フィルムセンターというところで、特別に上映してもらった。


 100分の映画だが、舞台の大半は東京で、いったいいつになったら釜石が出てくるのかとはらはらしたが(結局、最後の10分になって登場。しかし、どうもロケは行われていない模様)、映画そのものは、なかなか面白かった。


 当時の東京の風俗がよく描かれているし、女優さんは美しい。その振る舞いも落ち着いていて、小津の後期の映画を思わせる様式美である。


 それにしても、1939年というのは微妙な年だ。中国大陸での戦争はまだ泥沼に陥ってないし、アメリカとの戦争もはじまっていない。戦時色はもちろんうかがえるが(男主人公の出征が、物語の大きなポイントになっている)、丸の内に働く「職業婦人」である女主人公たちの会話はまだ自由で屈託がない(「子供なんて欲しくないわ」「あら、それ危険思想よ」)。


 しかしながら、男主人公の大陸での経験はまったく描かれず、原作にはある、彼の大陸での負傷経験からくる虚脱感やニヒリズムはかき消されている。結果として、物語は純粋なメロドラマになっている。ただし、はたして監督や脚本家がどれだけ意図したかはともかく、完全にメロドラマにするには不自然な部分が残っていて、エンディングの「釜石で希望に向かって二人は再出発しました。めでたしめでたし」は、どうにもこうにも唐突である。そこに、製作者の時局への抵抗の意図まで読み込むのは難しいと思うが、、、


 思うのはやはり、なぜ最後に釜石なのか、ということ。釜石はなぜ、主人公たちの再出発の場所として選ばれたのか。この時代において、釜石という場所が喚起するイメージが何であったのか、もっと知りたいと思う。