村上春樹と安原顕

 今日、本屋で文藝春秋を立ち読みした。村上春樹が名物編集者だった故安原顕について書いた文章を読むためだ。村上の自筆原稿が、本人の知らないところでマーケットに流出したという。それがどうも安原がやったことであり、しかも彼は生前から、村上の原稿を売っていたらしい。最初は村上も心許す、よき理解者であった安原が、途中から村上を憎むようになり、最後はその自筆原稿を売るというかたちで憎悪を見せつけたという話は、とても悲しい。


 まあ、このこと自体についてはとくに言うべきことはない(ひどい話だけど)。また、このような文章を村上が書くことの是非も措いておく(安原は反論できないのだからフェアではない、とは言える)。安原という人はとても興味深い人だが、正直お近づきにはなりたくないタイプだ。本人的にはいろいろあったのだろう。同情すべき余地はあるのだろうが、どうしても好きにはなれない。どれだけ彼が編集者として大きな仕事をしたとしても。


 が、ある意味おもしろいと思ったのは、最初、村上が安原に好意を持った理由だ。安原は一人の人間として作品の好悪を裏表なく正直に語り、業界人ぽくなかったと村上は評価する。いかにもやくざな文芸業界の中で一人異端として生きる安原に、組織に属することのなかった村上は自分と身近なものを感じたのだろう。


 そして最終的に村上が安原を見限ったのは、そういう安原が中央公論社の編集者という地位をどうしても手放すことができないにもかかわらず、会社の悪口を言い続けた点に、ある種のいさぎ悪さ(そんな言葉なかったっけ?)を感じたからだという。自分の所属する会社を批判することがわるいわけではない。が、どうしても自分がそれに依存しているとわかっていながら、そしてそういう自分を嫌悪しつつ、しかし会社をののしり続けることで安原に生じたある種の頽廃を、村上は嫌ったのだろう。考えさせられる話だ。


 自分のなかにあるどろどろしたものを、なるべくクリアに見ようとする村上らしい文章。かなりどぎつい話を下品にならずに書ける村上の文章はさすがだ。でも、それでもやはり、後味が悪いことも否定できない。