『風立ちぬ』

 宮崎駿監督の新作『風立ちぬ』をみた。いろいろ議論があることは、聞いている。でもまあ、自分なりにみてみよう、そう思って映画館に出かけた。年に一度、映画館に行くかどうかもわからない自分の、ささやかな感想を以下に記す(ネタバレの内容を含むので、まだみていない人はご注意を)。


 ちなみに主人公の堀越二郎は、零戦の設計者として知られる実在の人物である。この人物を主人公にすると聞いて、「宮崎監督も難しい主題を選んだものだ」と思った。宮崎監督が飛行機マニア、とくに戦闘機マニアであることはよく知られている。とはいえ、趣味ならともかく、映画にするとなると、どうしても戦争の主題を免れない。とくに憲法問題に関して積極的に発言している宮崎監督である。「なぜ、戦争兵器をつくった人間を主人公にするのだ」という批判は、容易に予想できたろう。


 いや、飛行機自体は純粋なテクノロジーであり、戦争目的でなくても民間利用もできるはずだ、というのは一つの答えだ。とはいえ、堀越の場合はまさに戦闘機を開発したのであり、そうであるがゆえに(当時の日本にとっては)莫大な開発資金を利用できた。本人がいかに純粋であったとしても(実際に純粋な人であったのだが)、それだけでは免罪符にならない。宮崎監督が安易に堀越を正当化するはずがないことは、事前に予測された。とはいえ、宮崎監督が堀越を断罪するために映画をつくるとも思えない。戦争を批判しながら、堀越の純粋さを、少なくとも否定しないことはいかに可能か。実に困難な課題に宮崎監督は立ち向かったのだと思う。


 映画のオープニングは、「困ったら空を飛べ」の宮崎監督らしい、美しい青空を主人公の飛行機が飛ぶことを夢想するシーンから始まる。宮崎監督にとって、空を飛ぶことは自由と解放に等しい。これまた実在の人物であるイタリア人飛行機設計家カプローニは、一種の道化回しとしてこの映画に登場する。いささかこっけいで、それでも主人公を励ますこの人物がいなければ、映画のエンディングは、より救いのないものになっただろう。


 大震災の描写も迫力がある。大地が鳴動し、うごめく。あたかも生き物のようだ。おそろしい熱風が吹く。「風立ちぬ」は映画のテーマだが、風は心地よいものとは限らない。すべてを破壊するおそろしい熱風もまた、風である。三・一一を受けてのシーンだろうが、宮崎監督の描写は具体的というより、どこかシンボリックである。主人公はここで少女と出会うが、以下、この映画の主たるストーリーは主人公による零戦の開発と、高原の避暑地における少女との再会(面白いことに、宮崎監督は、実在する堀越のストーリーと、堀辰雄の世界を一体に融合する)が中心となる。


 ある意味で、映画には山場もなければクライマックスもない。たしかに零戦開発の成功は物語の中心ではあろう。とはいえ、宮崎監督はこれをきわめて抑制的に描く(「プロジェクトX」ではないのだ)。むしろ、主人公とその仲間たちの友情を描写するのが目的かのようだ。宮崎監督の映画には、悪人は出て来ないといわれるが、この映画も、出てくるのはみんないい人ばかりだ。この集団の友情と信頼は美しい、それがどれだけ苦さをもったものであれ。


 主人公と少女の物語も本当に美しい。とはいえ、結核を病むヒロインの死は最初から予測され、実際その通りになる。しかも、後で述べるように、この映画の登場人物は、自らの内面を過剰に口にしない。複雑な思いを胸に秘めつつ、出てくる言葉はつねに短い(そして、前向きである)。まさにメロドラマの主題を、きわめて非メロドラマ的に描いているのが、この映画の特徴だ。


 戦争シーンは一切ない。すべてが破壊され、残骸になったシーンが映るだけである。ヒロインの死も、それが暗示されるだけで、具体的には描かれない。その意味では、この映画はすべてがきわめて抑制的なのである(続く)。