21世紀の日本

ドイツでの滞在ももう少しで後半に差し掛かる。講義も7週目でちょうど半分終わったことになる。しつこいようだが、こちらでの講義について、再度触れたい。

 

 こちらでの担当は三種類。一つが学部向け、一つが大学院向けの講義で、後のもう一つが日本語講読の演習である。が、いずれも人数が少ないので、同じようなスタイルでやっている。

 

 受講生はもちろんドイツ人が中心だけれど、中国人の学生さんもいれば、イギリス人の学生さんもいる。中にはウクライナ人の学生さんまでいて、なかなかダイバーシティに富んでいる。申し訳ないけれど、講義は英語でやっている。ドイツ語でできたらいいけど、、、まあ、無理だなあ。

 

 でも前にも書いたけれど、国際コミュニケーション用語としての英語はとても重要だ。この場合、「国際コミュニケーション用語としての英語」というのは、「アメリカで実際に使われている英語」とは区別される。英語を母国語としない人間同士が、互いの意志を疎通させるための英語だ。発音や表現に微妙な部分があるとしても、ともかく正確に互いの意志を疎通させることが大事で、明快で平易であることが求められる。こった表現は必要ない。美しい言い回しもいらない。ともかく情報が正確に伝わり、意志の疎通がスムースであることが一番である。

 

 このような「国際コミュニケーション用語」としての英語を用いて、多様なバックグラウンドを持つ人が集まり、議論を交わす。それぞれの人が、それぞれの国を代表してではなく、一人の人間として、素直に思ったことを話し、質問し、それに誰かが答える。相互の間に、多様なバックグラウンドの違いはありつつも、同じ時代を生きているという共感のようなものがある。

 

 当然、日本のことを話していても、東アジアという歴史的・文化的な文脈において論じることが必要だし、現代世界の中でそれがどういう意味を持つかが肝心だ。「日本はこうなんです。おしまい」のような日本特殊論は、とっくの昔に時代遅れになっている。日本のかくかくしかじかの事例は、こういう背景の下で起きたわけだけれど、それは世界の人々にとって意味のあることなのか、そうでないのか。このようなスタイルで議論するとき、日本の面白さもまたもっともよく示されるのではないか。そう感じている。

 

 このようなダイバーシティに溢れる環境の下、互いに微妙な英語を駆使しつつ議論をしていくことこそ、21世紀におけるアカデミズムの醍醐味であると思う。