島根県立大学における偲ぶ会挨拶

 本日はご多忙のなか、亡き父を偲ぶ会にお集まりいただき、心より御礼申し上げます。会を主催していただいた島根県立大学、同短期大学部、さらに共催としてお力添えいただいた浜田市島根県立大学浜田キャンパス同窓会、および同総合政策学部学友会の皆様に深く感謝いたします。またご挨拶いただいた清原正義学長、弔辞を賜った溝口善兵衛島根県知事、久保田章市浜田市長、市民研究員代表の牛尾昭様、同窓会代表の森田裕典様、そして別枝行夫先生にも、御礼申し上げます。また、ここ浜田に来るまで大変お世話になった江口伸吾先生、沖村理史先生にも心より感謝したいと思います。そして遺族として、ご参列のすべての皆様に深く感謝する次第です。


 父宇野重昭は、中国を中心とする北東アジア国際政治の専門家であると同時に、故郷を愛する一人の島根人でした。その父にとって、島根県立大学は「研究」と「故郷」という人生の二つの思いを同時に実現できる夢のような場所、フィールド・オブ・ドリームズでした。この島根の地において父は県立大学の創設に携わり、そこに北東アジア研究の一大拠点を形成することに貢献しました。本当に幸せな一生であったと思います。


 父は石川県金沢市に生まれました。当時、農林省に勤めていた祖父に連れられ、日本の各地を転々としたということです。そのような父ですが、思いはつねに故郷の地である島根県にありました。宇野家は、古くより隠岐島の地にあって神社の宮司であったと伝えられています。同時に、幕末には私塾を営み、地域の教育にも携わってきました。その意味では、成蹊大学での仕事を終えたのち、父が島根の地に戻り、県立大学に奉職したことは、まさに先祖の仕事を継承したとも言えるでしょう。


 父が島根県立大学の創設に関わると聞いた日のことを思い出します。当時、父は成蹊大学学長の任を終え、同学園の専務理事をしていました。その時すでに60代の後半であった父が、故郷とはいえ、まったく新しい仕事に着手することに不安がなかったといえば嘘になります。東京生まれで東京育ちの母が、はたして島根の地に馴染めるかどうかも、息子である私には気がかりでした。当時住まいのあった横浜の地で、悠々自適のうちに残りの人生を楽しんだ方がいいのではないか−−そのような思いが残ったのは確かです。


 しかしながら、両親は浜田の地で、新たな大学づくりに挑戦する決断を下しました。やがて私自身、自らの家族を連れて浜田を訪問し、そこでの父や母の様子を見て、やはり両親の決断を尊重して正しかったと確信しました。生き生きと大学や町を紹介してくれた父はもちろん、教育思想史研究者である母が、西周研究を通じて、大学内外の研究者の皆様と交流を深めているのも、とてもうれしい発見でした。70代に入って、新たな土地で、新たな人生の課題に果敢に取り組んだ両親を、息子として誇らしく思います。


 その上で、私の方から皆様にお願いしたいことがございます。


 県立大学は、島根の地にあって、北東アジアを研究する大切な拠点です。さらに本田雄一前学長の下、地域連携の体制が強化されたとうかがっております。しばしば「グローカル」と言いますが、地域に根を下ろしていてこそ、国境を超えた活躍も可能になります。21世紀の世界は、人口面においてはもちろん、政治や経済面においてもアジアの時代になるでしょう。なかでも北東アジアに張り巡らされたエネルギーや物流、情報のネットワークは、世界を駆動する原動力となるはずです。この北東アジアの巨大なネットワークのなかで日本、とくに島根県を含む日本海の諸地域に何ができるか、ぜひとも研究を進めていただければと思います。「北東アジア研究」と「島根という地域」という両輪を、見事に結びつけていかれることを願ってやみません。


 同時に地域の皆様には、大学を暖かく見守っていただければと切に願います。昨今、少子化が進むなかで大学の舵取りは難しくなるばかりです。島根の地に集まった学生さんと若い研究者を、地域を挙げて育てていって下さい。大学もまた、地域の課題解決に必ずや貢献してくれるはずです。地域の財産である大学を、大学教職員や学生はもちろん、地域の皆様の力でより大きなものへと発展させていくことこそ、天で島根を見守る父がもっとも願っていることに違いありません。


 父は、どんな若い人に対しても、対等な人間として接する人でした。また、話していると、いつの間にか、自分も勉強したい、考えてみたいと思わせる人でした。その父が島根の地に植えた種が大きく育つことを願ってやみません。


 地域を愛し、地域の皆様に愛された父の人生は幸せなものでした。


 本日は誠にありがとうございました。